坂の上の雲_司馬遼太郎
本書は小説ではなく歴史書であり、実務者目線ではなく司令官目線であり、脚色ではなく詳説である。他の司馬遼太郎氏の著作、例えば燃えよ剣(現時点では私はこの作品は読了できていない)などに比べて史実描写が豊富である。極めて口語体と修飾文を排除した文体は当初は質素に感じるが、読量に比例してその簡潔さに引き込まれる。
本書の主人公は秋山真之、秋山好古、正岡子規という事になっているが、途中の奉天陸戦で多くの叙述を占めているのは児玉、乃木、ロシア側のクロパトキン。そして日露戦争の雌雄を決するに至った海戦では、真之、東郷、そしてロシア側のロジェストウィンスキーである。
ロシア官僚制への批判的態度と、日本における礼賛が根底になる。また日本においても明治期、および以降の昭和期において評価が二分された筆者の史観に基づいて作品が展開されている。
1~7巻までは、ほとんど具体的な人物描写が無くむしろ頼りなげにさえ感じさせる東郷が、8巻の日本海戦において、寡黙にしかし決定的な敵前回頭を決断する様は感銘を強く生じさせる。8巻に至り、読者ははじめて東郷の存在を感じるに至る。
全体で8巻にも及ぶ大作は読者にも非常な労力を要求し、私自身は正直6巻に入ったあたりからは読了自体が目標になり、完遂することでの質的変化を目指して読んでいた感がある。しかし、本作の最終巻である8巻に入るやいなや、物語の躍動が大きくなり、時として涙をあらがえない描写が続く。そこに至るまでの史実描写は前段であり、最終巻が本作の中心であると思う。読者もそこに至るまでに、何らかの質的変化を促されたと言えるかもしれない。
作品の最後、戦争礼賛で終わる形を取らず、真之、好古ともに戦争の渦中における鋭さを失い、発色を失い、余生を終える姿にはなにがしかの鈍重なる雰囲気と静けさを伴って完結する。
なぜこうも坂の上の雲に対する経営者層からの評価が高いのか、私の中での結論は当初、いわば、世の経営者が人をうまく扱い、動かし、会社を管理する際に、当時の日露戦争における大山、東郷、児玉、乃木へのシンパシーを感じ、実利に値するからだと感じていた。しかし、著者の単行本版のあとがき6巻を読んだ際、私の中で別の結論を得た。それは、著者が40歳代の10年間を、徹底的な史実調査により日露戦争をテーマとして研究に身を投じ、局面と局面の相関関係を見出し、全体が1個の凸凹のある回想として目に映るに至るまでの大労に魅了されるからであり、その在り方にこそシンパシーを感じるからだと思う。経営でなくとも、趣味であれ、勉学であれ、労力と時間を集中投下して達成を感じる読者におけるなにがしかの経験が著者との一体感を生じさせ、坂の上の雲の成り立つに至った姿に親しみを感じるに至る。それこそが、本作の最も大きな魅力だと思う。
【以下は特に印象的な描写として記載】
・15時間を要して、「敵艦見ゆ」という電報を石垣島まで伝えに云った島民らが、国家から表彰されてこそはじめて価値を生じ、表彰もされないのに自分で自分の行為に価値を見出して顕示することの無い、素晴らしさ。
・窮地に至り、退路無しと判断すれば、早急、積極果敢な行動に出よという言葉。
・戦艦イズムルードが単独、東のウラジオストクへ退却を図る際、武士の情けとして追走を取らなかった第二戦隊島村速雄の度量の広さ。
・ネボガトフ降伏の際、真之が死屍累々のロシア人の遺体の一つに、つかつかと前に行き、ひざまづき、冥福を祈り、敵国であるロシア人から反抗の念が消え、親しみに近い感情が垣間見えた描写。同じくネボガトフが降伏の際に三笠に入る際、日本の駆逐艦の乗員が万歳をはじめた際、ひどく不愉快な表情となり、「あっちへ行けと言え」とどなり、沈黙を要求した東郷の描写。
・神明はただ平等の鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一戦に満足して治平に安ずる者よりただちにこれを奪う。という真之の言葉。
以上
燃えよ剣_司馬遼太郎
同じ著者の作品である坂の上の雲とは異なり、目線は完全に登場人物にあたっている。多くは本作の主人公である土方歳三である。同じ空間に共存できるため臨場感がある。一方で大局的な歴史観として作品を捉えるというよりは、一つの娯楽大作を読んでいるという感想となる。同じ著者の坂の上の雲が歴史を俯瞰した入念な歴史調査に基づいた歴史書であるならば、燃えよ剣は目線を土方歳三に落とした生き方の叙述である。
文体に無理がなく極めてなめらかに読み進んでいける。読むことに対して、読者に負担を一切要求しない。そのあたりも坂の上の雲とは異なる。坂の上の雲が読者と共に探求を要求する作品だとすれば、本作は自然と書物の方からそれへといざなってくれる。
土方歳三の豪放磊落な気質が非常に清々しく、またそれだけに途中に垣間見せる近藤勇に対する配慮、即ち隊員に対する無理のある命令や嫌われ役は近藤勇には矛先を向けさせないように土方歳三は意図して買って出る。それが性分であるとは言うものの、新選組を組織として強くするために徹底した配慮を行う。また江戸の女性、雪との恋愛では、それまでの作中では見せることの無い紛れもない恋愛感情ゆえのためらいや優しさを見せる。
本作の最終章である砲煙の印象の強さは、全章の中でも極めて秀でており、燃えよ剣という題名もこの章を形容しているように思われる。すでに近藤や沖田を失っている土方にとってみれば彼らに恥ずかしくない死に場所を求めていた。死に場所を求めるという感覚は私を含めて非常に実感しづらいが、最も身近にあった長く連れ添った妻が老衰で亡くなり、あとの余生は妻のもとへ行くまでという達観に近い翁の心境ではないかと思う。
忠臣は二君に仕えずという言葉があるが、土方にとってそれは忠臣であるが故ではなく、男の生き方として当然であった。それゆえに時世が完全に薩長の新政府軍に傾いた後でも、彼は決して幕府軍である事を変えることはない。最終章で彼が最後に語った言葉は、新選組副長土方歳三である。新選組発足当初の斎藤一や市村鉄之助を戦場から遠ざけて生を歩むことを要求し、新選組として誠を通すことで生涯を終える。
以上
最後の将軍 -徳川慶喜-_司馬遼太郎
徳川幕府の最後の将軍、徳川慶喜は才に長じた、野望無き、孤独の人であった。将軍にならなければ、いや慶喜自身は芸の人、芸を伸ばすこと専念していている事を本来渇望していたのではないだろうか。時世が彼を将軍にさせ、それは全く望まぬ境遇であった。
徳川慶喜を評するとき、彼を一個人として見るか、徳川の将軍として見るかによって大きく評価は異なる。我々現代の一個人にとっては私と公を明確に区別してみることが可能だが、江戸や明治以前の人物を評するにあっては、一個人を私の観点から見ることは非常に難しい。公の観点から見たとき、慶喜ほど私怨で将軍としての決断を行い、客観的に見れば新政府軍から朝敵と見られぬために徹底服従を貫き、いわば逃亡を図った点を評価することはできない。少なくとも私の知見においては、公として見たときにはそのような評価となる。幕府軍の被害を最小限に抑え、俯瞰的に見れば日本を最短経路で明治維新に向かわせたという評を行う方もいるかと思う。
一方、徳川慶喜を私の観点で見たとき、これほど孤独であった人もない。幼少より才に長じたが故に、自身の意図とは関係なく将軍の地位に上がる。姦策の人とも評されるほどに自身の言動が自分に跳ね返る恐れを幼少から繰り返し、それが歴史から自分がどう評されるかという観点まで達するほどにいわば、恐れていた。大志抱く以前にすでに恐れを身体全体に満たしてしまっていた。それほどまでに不幸であった。
徳川慶喜が最後まで私を通した人物なのか、もしくは公を大局観を以て全うした人物なのか、それに関して明確な答えを出すことはできない。しかし、いずれであろうと、否、実際にはその混在なのであろうが、その人物がその人物になるに至った経緯を知る事が大切である。歴史書を見る時、年表に載る出来事だけでなく、その経緯を理由を、またはそのように至らしめた時世を感じたときほど面白いことはない。
以上
世に棲む日々_司馬遼太郎
吉田松陰という革命家・思想家から生じた、高杉晋作という活動家・合理家を描く。時世が二人を正当化したが、当時の体制である幕府から見ればいわばテロリストである。思想という狂信から生まれた行動、それは青と赤の色の様に対局を成すようでいて、調和がとれている。それはたとえば陰陽であり、動静である。
時世が二人を時代の前面に立たせた事は間違いないが、幕末の日本が欧州列強から開国を要求され、徳川慶喜が最後の将軍をつとめたその時、すでに体制が大きく変わろうとしていた。日本という国が徳川政府という体制によって、すでに維持させる事が不可能となった。その時、革命は起こるべくして起こったが、長州の場合には吉田松陰と高杉晋作の思想と行動が、その時世に「乗った」と言える。
もちろん、当時の徳川政府の支配(と言っても良いであろう)のもとにおける、鬱屈は私が知りえるものではない。(当時からいえば、体制のもとに史実は残されるであろうから、徳川政府の負の面に関する史実は極めて少ないのではないだろうか。)その支配下における革命というのは、時代の当然の流れなのかもしれない。
私自身は正直に言うと、本書を読んでいる中で吉田松陰や高杉晋作に人間的魅力を感じる事は無かった。同じ著者の作品である、坂の上の雲の様な大海の様な重厚な躍動感も感じなかった。しかし、二人が時世の中で担った役割というものは多少ながら感ずる事が出来た。思想から革命が生じ、のちの明治政府における体制化へつながるまでの道程。明治という時代に向かう、原点が描かれている。
以上
竜馬がゆく_司馬遼太郎
司馬遼太郎の代表作の一つ、竜馬がゆく。私はこの著作を読む前に、坂の上の雲、世に棲む日々、徳川慶喜、燃えよ剣を読んだ。文体は坂の上の雲ほどは固くなく、燃えよ剣ほどは口語体が多くない。
竜馬が竜馬となったのは、勝海舟と出会った後であり、前半は竜馬が勝海舟に出会う前を書いているため、竜馬の奔放さが十分に描かれているのと同時にどこか頼りなさも感じさせる。凄みのある人物は、表面と内部で別の人格を持つと感じさせる事があり、それはいわば、すべて見透かされている、もしくはすべて理解してくれているという感覚であるが、前半の竜馬にはそれがない。見えるところがすべてである。
一方、後半の竜馬が竜馬である。勝海舟と出会った後、世界の中での日本を意識した。書物を読んだ。そのあとの竜馬は思想を持ったと同時に、実利の感覚を研ぎ澄ました。実利の感覚には、思想と違い相手を意識せねばならない。自分と相手の立場、背景の違いを理解し、お互いの重きを置く点を理解し、尊重せねばならない。それが竜馬を竜馬にした。幕末にあっては、そのような感覚を持った人物は稀であり、それが大政奉還を竜馬に至らしめるにつながった。大政奉還自体は勝海舟の入れ知恵と言えるかもしれないが、構想と実行には大きな差がある。
竜馬には様々な背景があった。それはまず土佐藩における郷士であったこと。それにより、差別への嫌悪と公平への渇望を生じさせた。その地盤に、勝海舟によってアメリカのワシントンの自由思想・民主思想がよく育った。剣道によって彼を幕末の時代に生命として生きることを可能とさせた。
最後、竜馬は商人となる事を目指したのであろうか。時代は彼に終わりを告げた。役割を終えたのだと。竜馬によって人格を形成された人々は、数多い。
以上
関ケ原_司馬遼太郎
豊臣秀吉が死去したのち、世は二分に大勢が分かれた。それは、豊臣家の存亡を願う石田三成率いる西軍と、秀吉亡き後最も強大な勢力を保持する家康の東軍である。本書は、西軍と東軍それぞれに属する諸将が、一族・家の存亡を願い、利によって駆け引きを行う政略詩編であるとみることができる。それは体制としての西軍と東軍の対比である。
一方、本書は義によってあらがう三成と、利によって天下を目指す家康との対比と見ることもできる。私は本書に意義を見出そうとするとき、後者の対比に魅力を感じる。それは、私が本書を読むにあたり常に感じていた疑問に答えるものであるからである。その疑問は、なぜ三成はあらがうかであった。
私がこの疑問を持ったのには理由がある。三成は計数に優れた才を持つ、優秀な官僚である。才の人ではあるが、魅力の人ではなく、人の感情の機微に疎く、それゆえに権力社会において諸将に反感を感じさせる事の多々あった。それは、西軍を率いる大将としては致命的であり、欠損である。その歯がゆさは常々三成自身も感じることがあったのではないか。それは現代社会でも、ある社会構造に属する人間にはシンパシーを感じさせると思う。才はある、義はある。ただし、自分の言う通りには部下は動かない。自分の言葉には重みがない。そのような辛さは多かれ少なかれ、組織に属する人間は感じる事があるのではなかろうか。私はそのような状況を三成に投影した。
にも拘わらず、なぜ三成はあらがい、戦うのか。それが本書を読んでいて常に疑問であった。その答えを、自分の中の解として出せたのは、下巻のほぼ最後である。その描写は、三成はすでに関ケ原の戦いにおいて西軍として敗北し、逃げ延びる状況である。この描写には、情緒的な描写もあり、誇張されている可能性も多分にあるが、とは言え、私はそこに真実を見た。この描写で三成は、痩せた、細く、何の取り柄も無さそうな農民である与次郎太夫に、生を助けられる。この農民は、その昔三成に農地を与えられ、それによって多くの人々の生につながり得た事、自身の名を三成が記憶していたことに恩義を感じ、妻子を離別させ、三成を逃げさせしめる。この農民は昵懇である。そこに三成は感じるに至り、「義というものは権力社会にはない、今一つの社会にある」と言う。
やがて、三成は家康に捕らえられるも、東軍の福島正則に対して、自分の尊厳を維持する事に、残されたすべての体力を使おうとした。言う、英雄たるものは最後の瞬間まで生を思い、機会を待つものである、と。これはある意味では、昭和を嫌い無鉄砲な死を神格化しない司馬遼太郎と、三島由紀夫との対比である。
生の最後に三成は言う、これが本書のすべてである。「泉下で太閤殿下に謁する。それのみが楽しみである。」
以上
項羽と劉邦_司馬遼太郎
司馬遼太郎の著作は今まで数作品を読んできたが、本作がもっとも読了まで時間を要した。その理由は何であろうか。本作は3巻から構成されており、上巻が秦の時代から項羽と劉邦のまだ同じ立場としてあった時が描かれる。中巻で二人の進む道が分かれ、下巻で結末を迎える。
下巻で面白さが飛躍的に上がり、描写に躍動が生まれるのが他作品も含めて司馬遼太郎の作品の特徴だと思っており、それは常に物語の前半部分では静的な描写が多いことがセットになっている。上巻と下巻は描写に落ち着きがあり、情景描写も多いために中々物語に心酔することが出来ずに苦労した。一方、下巻になると、人物描写から韓信や項羽に魅力的な部分が垣間見え、それが面白さを浮き立たせた。私は小説を読む時、人物の思想や気骨、人となり、それに魅了されるとき、作品自体へも面白さを感じる質らしい。それは坂の上の雲における東郷平八郎の様な、普段は寡黙ながら、要所で見せる人間としての深さにもっとも感じるところがある。
本作においては、題名から項羽と劉邦であるが、この二人の魅力は何であるか、それを私は物語からどうやら必死に感じ取ろうとしていたらしい。それが上巻、中巻でなかなか読書が進まなかった理由であるらしい。下巻で韓信が見せた忠実、項羽が見せた仲間の武将への言葉、たとえば「飲み終えれば、めいめいが城を落ちるのだ。運を天にまかせ、いずかたなりとも、血路をひらいて落ち延びよ。」といった言葉の一つ一つに、本作の魅力を能動的に拾っていったという感覚だった。
項羽と劉邦という題名からして、本作は二人の比較である。勇猛なる項羽と、(正直何と形容したら良いのか、適切な語彙が見つからないのだが、作品中での言葉を借りれば)高貴なる愚純さを持った劉邦。最終的には劉邦がその人間的大きさを以て、優秀な周辺を磁力の様に集めることになり、項羽の部隊数を上回って項羽を討つ。その理由が劉邦が食糧を確保したことにあるという。それは一つの見解である。著者である司馬遼太郎の見解なのか、歴史上の学術的研究からの見解なのかはわからないが、本作の解説をみるところ、それが主流の見解であるようだ。それは一つの解だと思う。
一方で、劉邦は漢民族の歴史の始まりであり、そのあと中国では他の民族の王朝が生まれ変遷するも、現代では漢民族が90%を超えるという。歴史観は現代からの目線であり、主観が入ることは免れない。また劉邦は、中国的良人物の典型であるという。どうも個人的には劉邦という人間に大いなる魅力を感じることが、本作を読んでいても中々無かった。それは果たして、国民性の違いなのか、私自身の人間性によるものなのか、それはわからない。また、著者のあとがきにもある通り、中国大陸では何百年に一度大規模な飢饉が起こり、そのたびに食糧を求めて村民が集団で流民化するという。その時に求められる統治者はまさに食糧を付与できる人物である。
以上を踏まえると、劉邦が項羽を討ったことに対して、後世の漢民族の理想像を劉邦に当てはめることで正当性を追求したのではないかと思うところがないでも無い。司馬遼太郎、晩年の大作の一つである。
以上
沈まぬ太陽_山崎豊子
社会派小説を書く作家として、今まで名前だけは知っていた著者山崎豊子の著作を読むのはこれが初めてであった。文体は現代的で、一般的な表現でまとめられており、この点は司馬遼太郎の独特な文末や、若干時代を感じさせる名詞などの表現はあまり見られない。著者が新聞記者であったことも影響してか、口語体で物語を進展させず、情景描写で以て進展させる点も私の好みに合い、なめらかに読み進んでいける。
著作は全5巻から構成される。1,2巻は主人公恩地一が国民航空における組合活動での内容と、その結果アフリカへ左遷された状況で繰り広げられる苦悩が描かれる。3,4巻は国民航空が実際に起こした航空機事故を通して、被害者の苦悩に焦点があてられる。最後の5巻では一転、国民航空が内部に抱える膿とも言って良い、収賄事件に焦点があてられる。いずれもテーマが絞られ、著者が著作を通して表現したテーマが明確であることが、読了することで見えてくる。
果たして最後の5巻は必要なのか、本書の主題と一般的に言われる3,4巻で描かれる航空機事故で十分である。と捉える意見もあるようだが、私はそうは思わなかった。本作は主人公こそ恩地であるが、常に恩地を中心に物語が進むわけではない。むしろ逆で、恩地自身はその他のいわゆる権力者によって、かき乱され、振り回される対象であると言える。よって、その周りの人間たちの描写も多く、国民航空復権の会長として打診された国見。恩地とはある意味対照的に描かれる行天などは印象的である。彼らには彼らが重要視する価値観があり、思想があり、それを第一義として生きている。その結果の帰着を、著者は5巻で始末をつけたかったのだと思う。
国見は最終的には会長の地位を更迭された。国見を人権者として一貫して描いた様に一般的に思われるが、私はそうは思えなかった。役割に徹する事こそが、第一である。果たして人権者とは何であろうか。誰に対しても良い人間であることであるとすれば、それは国見に求められることではなかった。よって、国見の取り組んだ組合統合事業も誰かに憎まれるとか、誰かの不利になるということを恐れていては完遂できず、おそらく国見にはその覚悟がなかったのだと思う。それが良いとか、悪いということではない。そういう人間であり、向き不向きがあり、何を第一義とするかという事だけである。
一方、行天の場合には徹底的に権力主義で、出世欲の高い人物として描かれる。その結果、早々に国民航空の取締役の地位に上り詰める。反面、幾つかの贈収賄も行い、最終的には東京地検特捜部に出頭を要求されることになる。彼にも彼の思想があり、重視するものがある。会社という法人として見れば彼ほど良い人間はいないということであるし、人道的な順法的な観点から見れば、彼はとがめられる立場にある。
最後に恩地はどうだろうか。彼は最終的にナイロビへ再赴任を命じられる。それを実は求めていたかのような描写がある。アフリカの広大な大地、沈まぬ太陽が彼の傷を癒してくれることを求め、その地へ戻ることをどこかで彼は求めていたのではないか。娘の結婚の顛末は最終的に描かれていないはずである。彼にとっては家族との関係は最後まで、満たされることの無いものとして描かれていた。今の私では、恩地一が第一とする価値観が見えてこなかった。これは私の至るところの不足だと思う。私自身が、本著に達していない。どんな事があっても逃げない強さ、それはきっとわかりづらいものだ。その分かりづらいものを感じられるところまで私が達していないということだ。まだ、本著を読了したとは言えない。
以上
不毛地帯_山崎豊子
山崎豊子の著作を読むのはこれで2作目である。沈まぬ太陽が社会派を前面に打ち出した作品である一方、不毛地帯は同じ社会派であるものの、より経済作品の趣を帯びている。文体は文語体と口語体のバランス良く、子気味良く読み進めていける。冗長な表現を用いず、適切な単語を選定しているためか、全体にのっぺりとせず切れ味鋭く、洗練。
本作の主人公は元大本営参謀の壱岐正。シベリアに抑留後、伊藤忠商事をモチーフとしたと思われる近畿商事の社長大門に、三顧の礼でもって迎えられる。思いを惹かれあう千里との恋愛と、好敵手である東京商事の鮫島とのやり取りも、経済小説一辺倒でない良い転換を与えている。一方、登場人物が不条理な会社との軋轢で精神を病み、ひとりは自決するに至るなど、現代の労使における問題点とも相通じる普遍の問題も浮き出している。本作が40年前の作品とは微塵も感じさせることがない。
構成は主に1,2巻でシベリア抑留の悲惨さを描き、3,4巻で航空自衛隊の次期戦闘機争い、またイラン・サルベスタン鉱区を通じて政官財癒着を描く。5巻に至り、それらの結末を描くと共に、法人における後継者問題を浮き彫りにしつつ、同時に人間の無私無償の良心を見事に表現している。私は5巻の最後に至るまで、壱岐という人間が何を尊しとして生きているのか掴みかねていたが、大門に社長退陣を迫る際の散りざま、もしくは壱岐の参謀としての表現を用いるならば「撤退」思想の美しさに一気に魅了された。誰しも人間であれば一度得た社会的地位を失いたくはない。近畿商事の中興の祖である大門にあっても同様で、綿花相場の巨額損失の手じまいをためらい、加齢に伴う衰えと共にもはや千軍を指揮する司令官たる役割を遂行できず、かと言って他の誰も止める事ができなくなっていた。
壱岐は、大門における社長という地位からの、そして人生の舞台からの「撤退戦」に最後まで参謀として仕えたのである。人であれば、その命は必ず終わりが来る。そして、老いにより衰える。だからこそ、自らの後任を育て引き継ぐことが必要なのである。大門は問う、「会社は、あと、どうなるのや」。壱岐は答え、「組織です、これからは組織で動く時代です、幸いその組織は、出来上がっております」「そうか、あとは組織か・・・」。
大局を見るとは、現状を面で捉え、過去を踏まえて未来を見ることではないだろうか。壱岐にあってはいついかなる時も、仕えた会社の未来、そして仕えた大門の未来を見据え、そして自分自身が適材適所であろうとした。壱岐が大門に社長退陣を迫る際、自らの辞表と共に「社長、どうかご受理ください、社長が勇退された社に、私が残ることなど有り得ようはずがございません、同場させてください」と言う。あたかも、司馬遼太郎の「関ケ原」で石田三成が語った「泉下で太閤殿下に謁する。それのみが楽しみである。」という言葉と似た感情を得た。それは、人の散り際、無私無償のうつくしさである。全巻2,500ページ以上に及ぶ大作であった。
以上
天平の甍_井上靖
井上靖の作品を読むのは初めてであった。文体は非常に静的で、高低が少ない。ただしそれは表面的な事である。本作の登場人物においても、同じ事が言え、歴史的に認められた人物だけが大役であるとは言えない。唐僧鑑真を日本へ招聘するにあたり、普照は生涯を捧げた。それは時として、積極的に捧げた事もあるし、比較的に消極的であったとも言える。ただし、事実としてそこに普照という人物が存在したことで、歴史観として彼を媒介にして、歴史が作られたと言える。
本作の登場人物として印象の深い人物、それは業行が筆頭である。年の言った老僧であり、彼もまた往年、日本から唐へ渡り、仏業を学んだ。唐へ渡ったころ、それは野心も旺盛であったことで、自ら学んで大成することを目指した。その結果として、彼は語った。「自分で勉強しようと思って何年か潰してしまったのが失敗でした。自分で幾ら勉強しても、たいしたことはないと早く分かればよかった。」と。私はこれを読んだ時、学びを諦めた、いわば道半ばにして妥協を許した故の発言かと大きな誤解をした。果たしてそうでは無かった。
彼は歴史において、運搬者であろうとした。すべての人間が生物学的に見ればそうであるように、彼が運搬者であろうとした選択は非常に感嘆すべき選択である。彼はその役目を達するために、ひたすら唐の書物の写経にまい進した。否、生涯のすべてを投じたと言っても良い。その行動が物語の前半では暗たんたるものに描かれ、意味付けの少ない描写がされていた。一転、物語の後半で鑑真が日本に渡航するに至り、事前に唐より渡った書物が多勢の日僧によって写経される描写がある。普照はその姿から、かつて業行が机に前屈みになり、写経をしていた姿を連想させた。同時に、業行が憑りつかれたかのように生涯の後半で語っていた椿が、庭で遅咲きの花を咲かせるのを見つけた。椿が誰を連想させていたか、今ならば分かる気がする。それは常に、誰からも言われずとも、誰からも価値を見出されなくとも、生涯をかけてあの業行がやってきたことである。
人は誰しも、表面でしか判断できない生き物である。美でもあるし、誠実さでもあるし、意味もそうである。私の職業であるシステムエンジニアでも、このような事はあり得る。成果として見出されるもの、それは時代の趨勢との合致であり、会社の方向性との合致であり、もしくは判定者の価値観や眼力かもしれない。果たして、どのような成果に価値があるのかそれはわからない。ただ一つ言えるのは、憑りつかれたかのように生涯を捧げた仕事に意味は生じるという事である。そこに他者の価値判定が生ずる事は、そのあとである。また時として、迷いや不満も生じる事もあろう。ただ、信じた事を曲げず形とし続けた事。アウトプットという言葉が軽いのであれば、我々が生産し続けた結果のみが運搬され得る。運搬されなければ、意味の生じようが無い。
以上
落日燃ゆ_城山三郎
城山三郎の著作を読むのは初めてで、ほとんど口語を挟まず情景描写もしくは人物描写で叙述してくために、人物関係を捉えることが難しく、また後半に至るまでは物語として所謂「読ませる」描写というものが無いため、読み進めることに苦労した。明治、大正、昭和における日本国の内閣の変遷について、歴史書的な描写で物語は進んでいく。
司馬遼太郎や山崎豊子と比較すれば、歴史書的な描写に偏るところが多い。一方で史実に忠実とも言える。私は登場人物の心情に共感するところがあれば、著作を魅力的なものと捉える一方で、心情を捉えそびれれば、評価もそれに応じたものとなることが多い。そういった意味では、私の著作への評価は後者だと言えるかもしれない。ただ、私の傾倒的な読み方に一石を当じる著作でもあったと言える。私の読み方は言わば、狂信的な読み方であり、心酔的であり、傾倒的なのだ。
なぜ、広田はこうも無私であり、禅的であるのか、過去におけるどういった経験がそうさせているのか、必死に文脈から導こうとするも、それは失敗に終わった。ただ、一つ言えることは広田にとっては、死は極めて身近であったし、ある意味で望むところであった。故に、極東裁判で自己弁護をすることは無く、天皇陛下に対する万歳も、まんざいと言ってのけた。
読了するも、物語の最後まで静的な文体は続いた。それはあたかも広田の世に対する態度を示すものであった。常に、風車の様に風が自己を回し続け、それにあらがっても仕方の無いことだと言うかのように。この文体があるからこそ、広田を表現することに納得性を持たせることが出来るのかもしれない。
以上
しんがり_清武英利
今は無き山一証券描いたノンフィクションドキュメンタリーである。小説ではなく、文章に装飾や煌びやかさ、輝く、または暗さなどの色は持たず、事実と登場人物たちのセリフが淡々と述べられていく文体は、司馬遼太郎や三島由紀夫などを読んできた読者には物足りなさを時として感じさせる。新聞の様な文体から、読者は自らシンパシーを感じながら読んでいくことが求められる。
日頃、目立たない仕事にこそ価値がある。目立たないというのは、自身への見返りではなく、仕事の価値に要求に忠実である事が時として存在する。本小説で描かれた精算業務などにおいては、その業務への姿勢が存分に発揮される。
自身の良心に従い、逃げずに職務に忠実であること、それがしんがりをつとめる要件であった。便益が少ない仕事を担うとき、頼るべくは自己の中にある良心しかない。それは時として思想であり、技術への信仰である。いずれにせよ、人は自己の中に頼るべくものを見つけだすことが生きていく上で必要となる。
以上
UNIXという考え方_Mike Gancarz
Think big, do small. 本書で表すUNIXの理念をひと言で表すとすればこの一言になると思う。コンピュータの初心者に向けた設計理念ではなく、当初から理念を変化させずに進めてきた様は宗教で言えば原理主義であろう。しかし原理主義が原理主義でいられる理由は過激主義である事に常に一致するわけではない。UNIXのそれはシンプル、スモール、ユニバーサル、シェアであり、清廉な思想に行きつく。
UNIXの思想、それはつまりシェア拡大のために思想を曲げ、笑顔を作り、迎合するというスタンスは全くとらない。利用者が変わるべき未来に備えたカスタマイズ性を備えつつ、肥大化する事を防止するために徹底的に小さく、柔軟に、シンプルにあろうとする。寡黙に、しかしやるべきことに徹する。
現時点で私はUNIX、LINUXの技術に全く明るくない。全く分かっていない。したがって、思想に対してファクトから府に落とす事ができていない。単にUNIXという宗教の経典に対して、抽象的にその巨象に対してイメージが作られたに過ぎない。今後バックエンド寄りのシステムエンジニアとしてやる上でおそらくLINUXに携わる事なくしてやっていくことはできない。したがって、本著作で経典をある程度理解した状態になった上で、教則を少しずつ学び、実践することが必要になるであろう。
自らが小さく、単純である事で、自らの存在目的を明確にする。それは他者からわかりやすくなり、他者から連携・流用されやすくなる。未来に生存するために柔軟にシンプルにある事で、関係性を持たれやすく、そこに「あろう」とする。独自技術を利用する事に満足を見出さず、誰にでもわかりやすくある事に満足を見出す。どこで、何をしているのか、自らの存在を明確に示す。ただし、必要以上に迎合せず、あるべき姿であり自らの思想に忠実にそうあろうとする。寡黙に。それがUNIX、LINUXの姿である。
以上
勉強の哲学_千葉雅也
- 主題
- ★★★★☆
- 論旨
- ★★☆☆☆
- 分かりやすさ
- ★★★☆☆
勉強をメタ的に捉える意識を芽生えさせる本です。ある程度一つの分野にリソースを集中投下した経験がある人なら非常に共感を得られる内容だと思います。
要点
1. 勉強と言語
・言語偏重の人になる
2. アイロニー、ユーモア、ナンセンス
・私たちは環境内で他者の真似をすることでしか言語を使えない
3. 決断ではなく中断
・歴史ある学問は「環境にいながらにしていない」ような思考を可能にする
・世界の真理がついに明らかになる「最後の勉強」、そんなものはない
・信頼できる情報にもとづく比較をちゃんと自分なりに引き受ける
・ある結論を、しかし絶対的にではなく仮の結論を出すのでなければならない
・仮固定の結論を比較の継続の中で徐々に放棄し、また異なる仮固定の結論へ移る
4. 勉強を有限化する技術
・勉強の順序は、複数の入門書⇒教科書⇒基本書
・入門書を読む中で、まず言葉使いに慣れる
・その分野=環境における言い方=考え方のコードをメタに観察する
・勉強を続けるにあたっては、学問をベースにしてその上により現代的で現場的な知識を置くという二重構造で進める
・読書というのは、知らない部屋にパッと入って物の位置関係を把握するイメージ
・納得より先に、使われている言葉の種類や論理的なつながりなどを把握する
・テクストの骨組み、「構造」を分析すること
・勉強において重要なのは、自分の大体の理解をテクストの特定の箇所にきちんと「紐づける」こと
・勉強は読むことが第一、そして読みながらノートを書く
・普段から書くことを思考のプロセスに組み込む
・勉強のきりのなさ=深追い方向(アイロニー)と目移り方向(ユーモア)に打ちのめされず、ある程度で一応は勉強したことにする
以上
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本を読む本_M.J.アドラー
- 主題
- ★★★☆☆
- 論旨
- ★★★☆☆
- 分かりやすさ
- ★★★☆☆
読書の仕方について説いた名著です。昔から読まれている本には正当な理由があります。マーケティングで売れている本とは違う重みがあります。
要点
1. 読書の意味
・難しい本は構造を把握し、通読することに集中する
・What about(カテゴライズ=何に関する本か?)
・How(著者の主張、論点、ロジックは何か?)
・Why(なぜその主張をするのか?)
2. 分析読書 読書の第三レベル
・言い換えの技術=真に理解できた内容は自分の言葉に置き換えられる
・物語全体の統一を見出すと、それぞれの部分が持っている意味が分かる
(ただし、部分を知らずに統一を見出すことはできない)
・キーワードを見つける=著者の言葉の使い方を理解する
・最初に結論が見つかれば理由を探し、最初に理由が見つかれば結論を探す
・まずは正しく理解することが前提であり、読者の特権を行使するのはそれから
3. 読書の最終目標・問題解決にあたる一連の質問を作り、著者に答えてもらう
・論争は意見の相違ではなく、単に前提に対する解釈の相違である場合も多い
・比較読書はあらゆる側面から公平にものを見るという姿勢
・テレビなどは人為的なつっかえ棒、刺激に反応すれば精神が活動する”気”がする
4. あとがき
・我々の読みはとかくセンテンス単位、パラグラフ単位で読むことをしない
・旧来から日本人の読みは小説読書であると言ってよい
以上
現代文読解力の開発講座_霜栄
- 主題
- ★★★★☆
- 論旨
- ★★★★☆
- 分かりやすさ
- ★★★★☆
現代文の読解方法に関する名著です。本の読み方、文章に対峙する際のあるべき姿を学ぶ事ができる本です。仕事、学業いずれにせよ私たちは文章を介して物事を理解しますので、この本を読む事は日常の理解度を効果的にしてくれる取り組みと言えます。
要点
1. 同値・対比・因果
・現代文でまず身に着けるべきは、同値・対比・因果の関係をとらえる能力と、段落ごとに内容を整理できる能力
・同値の内容を正しく理解するために、必ず共通項をとらえねばならない
2. テーマ・結論・根拠
・本文の要旨とは、①本文の全体像としてのテーマと、②筆者が主張している結論、③結論を裏付ける根拠(何について、何を、なぜ・どのように述べているのか?)
・本文冒頭に根拠のない判断についてはそのあとに根拠が続き、結論となる可能性が高い
3. 結論(A)と例(A’)
・読み取らねばならないのは筆者の結論(A)であって、例(A’)は単に結論のサポートに過ぎない
・何を主張するための例だったのかを考えるのが鉄則
4. 具体と抽象
・抽象的表現に具体例を当てはめる、具体的表現に抽象的意味を当てはめる
5. その他
・設問文には、無駄な注意書きはない(=意図がある)
・本文の最初と最後に主張があり、真ん中の部分が根拠となっているのが日本の文章でよくあるパターン
・何が自分にとって幸せで不可欠なのか、それを知る事が大切
・自然環境保護の問題においても、まずは自然とは何かということを根本から考え直す必要がある
以上
私とは何か 個人から分人へ_平野啓一郎
- 主題
- ★★★★☆
- 論旨
- ★☆☆☆☆
- 分かりやすさ
- ★★★☆☆
分人という単語で語られる、自分と他者が1:Nの関係ではなく、N:Nの関係である著作である。N:Nであるが故に、自分と他者がうまくいかない事を卑下して思い悩む事はない。なぜならそれは、自分の中のN(=複数)のうちわずかな一つがたまたまうまくいかなかったからである。また、自分のNと相手のNのたまたま生じた相性やタイミングによって生じた違和感を必要以上に悩むことはないメッセージが込められている。
要点
自分のNの総数を増やすことで、たまたまうまくいかなかった関係性への自分への影響は相対的に減る故にできる限り、多様かつ複数のコミュニティに属することでNを増やす事が望ましい。ただ、個人ごとにNを増やせる数には限度(=適正、もしくは得手)があるため、無理に増やしても結局は適正値に収束していく。
生きづらさに悩むとき、それは人間関係にあることが多い。そして、それは個人の障害やコミュニケーション力といった言葉で能力値に変換されることもある。一方でコミュニケーションは常に複数で成り立っているわけで、相性の観点は常にある。学校の中でも、同じようなキャラクター同士でグループを形成することはよくあり、それは相性の心地よさから自然と形成されたものだと思う。また言語のコミュニケーション力と、非言語(=発声に頼らない文書や数値・記号変換によるもの)のコミュニケーション力という観点もある。
そういった、1.相性、2.コミュニケーションのカテゴリ、3.価値観(=例えば、よく職人の世界で我々がイメージするような「口を動かす暇があれば手を動かせ。」といった、発声によるコミュニケーションへの価値置きの優先順位)から考えると、人と人がうまくいくかは複数の要素によって成り立つので、必要以上に思い悩むことはない。また、うまくいくかどうかが本当に価値がある事なのかも、その場での要求事項によって大きく変わる。例えば、職場では全員が争いごとも無く仲良く平和にやっているのが良いのか、喧々諤々口角泡を飛ばしてもしくは文書でも強烈なプレッシャーをもってやりあっているのが良いのか、一概には結論を出すことはできない。
ひとつうまくいかない時、それで全部が否定ではない。うまくいったとしても、ずっと続く訳でもない。良いこともあれば、悪いこともある。良い時もあれば、悪い時もあるのだ。
以上
番外編 映画_ジョーカー
- 主題
- ★★★★★
- 論旨
- ★★★★☆
- 分かりやすさ
- ★★★★☆
今回は番外編として映画を取り上げます。大きなセンセーションを引き起こした映画です。物事を自分がどう理解するか、どう捉えるかが問われる映画です。
感想
知能、価値観が社会一般と異なる人間が社会不適合感を感じることは、誰しも一度や二度あるのではないだろうか。
それがあまりにも隔たりが大きい場合や、偶然にも不幸が重なって自らの精神的な治癒力をオーバーフローしてしまった場合に社会的、法的、モラル的に問題がある事件を起こしてしまうことは十分にあり得る。
世間には程度の差こそあれ、その様な立場の人はいるわけで、その行為がむしろ称賛されてしまった場合、行為者は社会的な善悪とは全く逆の観点で、極めて独善的な善悪の価値観を有してしまうことがある。それは極めてプライベートかつ強力な肯定である。
それが極限の状態で起こった場合、今作の主人公ジョーカーのような人間が誕生してしまう。また、それは一人のジョーカーの誕生だけにとどまることなく、同じ価値観が共有された第二、第三のジョーカーの誕生を誘発してしまうことになる。
現在、世界中で発生している大規模デモ、また過去に日本で起こった大学紛争にも同じ傾向がある。個人的な価値観の隔たりを埋められない場合、承認欲求が強い場合、社会的な評価が低い場合、大きな喪失というイベントが重なった場合、先天的な欠乏感に悩まされる場合、これは誰にでも起こりえる。
だからこそ人は、価値観はそもそも個人的なものであること、承認とは必衰かつ頼るざるべきもの、自身の努力で達成して頑張ったと自身で認めてあげること、日ごろから気持ちの余裕をもつこと(やるべきことを少しずつやっておくこと)、これらが大切なのだ。
かつて三島由紀夫は不道徳教育講座の著書の中で、不道徳を進めることで道徳を説く手法を用いた。私はこのジョーカーという映画が、これと同じ手法を用いていると信じている。別のことばを使うとすれば、私はそのように受け取った。
この映画を見て、どのように自分の価値観で捉えるか。作品中のジョーカーが人生の中で突き付けられた命題が、映画の鑑賞者自身にも命題として問われている。
以上